いわゆる情報社会と言われる社会になって久しい昨今、街を歩いていても、子供からお年寄りまでがスマホやパソコンを操る時代になりました。
世界で起きているニュースも瞬時で知ることができ、外出しなくても欲しいものが手に入る。そんなことは昭和の時代では到底考えられなかったことです。
ただ、社会の情報化が進んだ分、人々が幸せに満ちた生活を送っているのかというと、どうもそうではない気がしてなりません。
科学技術の発展に応じて、確かに物質的には豊かになったかもしれませんが、精神的な豊かさがそれに伴っていないような気がしてならないのです。
見たことのないような便利な機器が登場しても、それが生活のなかに定着すると、当たり前のようになり喜べなくなってしまう。
それどころか、自分が持ち合わせていないものを新たに見つけてきては枯渇感を感じてしまう人も少なくないのではないでしょうか?
現代人が物質的に豊かなのに精神的に満たされない理由
そのように感じてしまう原因はおそらく、人それぞれが手にする情報量が多くなりすぎていることで、現状で持ち合わせているものに満足できなくなることにあるのではないでしょうか。
新しいものが登場しても、更に新しいものに興味関心が向いてしまい、今手にしているものに感謝の気持ちを持てなくなってしまうのです。
情報が過多になると、人はより良いものを手にしようという欲が増し、数字によってものごとを序列化しようとします。
インターネットが社会に普及してからはその傾向は顕著で、社会のさまざまなサービスが、数字によって評価されるようになっています。
例えば「この従業員の接客態度は五段階評価でいくつですか?」「この食堂の満足度は100点満点で何点ですか?」みたいなアンケートも巷にあふれています。
確かに、市場経済において消費者がより良いサービスを選択できる仕組みをつくるのは便利なのかもしれません。
ただ、「これは数字で評価してしまっていいものか?」と首をかしげてしまうようなケースが増えすぎてしまうといささか問題があろうと思います。
数字によって対象物を評価することは確かにわかりやすいですが、人が精神的な豊かさを享受しにくくなっている原因のひとつになってしまっているような気がしてならないのです。
なぜ数字による序列化が問題なのか
なぜなら、数字で序列化するということは、自ずと何かと何かを比較することに意識が向かいやすくなるからです。
そこでは、「他者と自分を比較をする」ことも習慣化しやすくなることを意味するわけです。
つまり、世間一般あるいは特定他者と自分自身を比較して自分の「足りない部分」「短所や欠点」に目が行きやすくなるというわけなのです。
「足りない部分」「短所や欠点」に目を向く機会が増えるということは、それだけ自分が持ち合わせているものに目が向きにくくなるということも意味します。
となると、せっかく恵まれた環境や実力を持っていたとしても、それに気づくことなく自己肯定感が低いまま毎日を送らざるをえないということにつながっていくと考えられるのです。
もちろん要因はそれだけではなく複合的なものではありますが、その結果、日々に喜びを感じにくくなり幸福を感じる機会も少なくなるという現象を生んでいるのではないでしょうか?
情報社会において幸せを感じながら生きるためには
もちろん、便利な社会となることで、より良いサービスを選択できるようになったことは喜ばしいことだといえます。
ただその一方で、自分が持ち合わせているものに気付いてそれらに感謝する機会が少なくなるというのは非常に惜しいことだと言わざるを得ません。その分、幸福を感じる機会を喪失しているということですから。
ですから、今時点で持ち合わせているものに満足し、足りないところを探すのではなく、喜びを発見していく。その機会を意識的に増やすことが、情報化社会を幸せに生きていくための秘訣であるような気がします。
私たちはアナログな時代に後戻りをすることはできません。科学技術がもたらした文明の利器の恵みを享受しつつも、それに依存をするのではなく、自分の持ち合わせているものにも目を向けることが必要なのではないでしょうか。
そして、それらを喜びをもって捉え、感謝の気持ちを持つことが重要であると考えます。
例えば、野鳥の声に耳を傾けながら朝陽の美しさに感謝したり、お味噌汁一杯を「ああ、おいしいなあ」とゆっくり味わいながら飲んだり・・。
高価なものを持ち合わせていなくても、最先端の機器を手に入れなくても、日常には幸福感を味わえる題材にあふれていると思うのです。