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アンハッピーだと自身を語る人でも幸せな気分になれる「他者の捉え方」


忘年会シーズンの到来。先日、ある会合の忘年会で、知り合いの年配女性(仮名unhappyさん)と隣席になり久しぶりにおしゃべりをする機会がありました。そのなかで、以下のような会話を交わす場面がありました。

(I:私 U:unhappyさん)

(前略)

I:もう少しで今年も終わりですね。この1年はどんな年でしたか?

U:そうねえ。なんだかパッとしない一年だったわ。特に最近はアンハッピーな
ことがつづいているわ~

I:ええ?どうされたんですか?今年も随分ご活躍されていて幸せそうに見えますが

U:そんなことないわよ~、昨日なんかは小学校のときのお友達と50年ぶりにお茶したのよ。そうしたらね、お孫ちゃんができたって随分自慢してくるのよね~

I:お孫さんの話をですか。

U:そうなのよ~!そのお友達はさ、スマホでお孫ちゃんの写真をたくさん撮ってるのよ。それで私に「これ見て!私の孫!かわいいでしょ!」って見せてくるのよ。でも、他人の孫を見せられても、私、別にかわいくもな~んとも思わないんだよねえ~

I:そうなんですか・・。でも、そのお友達さんうれしそうで良かったじゃないですか。僕だったらスマホの写真を一緒に見て「かわいいですねえ!」「良かったですね!」ってたくさん褒めると思いますけど。

U:あなたは本当にやさしいわね。でも私は違うわ。心が荒んでるもの。だって、幸せそうな友達の姿を見せられたら「それに比べて私って一体何なんだろう?」って・・惨めになっちゃうじゃない。

I:そういうものですかね・・。

U:そうなのよ。ああ、私ってなんてアンハッピーなのかしら~・・ハッピーな人に生まれ変わりたいわぁ。

(後略)

ちなみに「アンハッピーだわ~」と自身のことを語るその知り合いの女性は、社会的にも成功を収めている人で、健康面においても何不自由なく過ごしているような人です。

お酒の席ですから、敢えて自身を自虐的に話すことで、私のような若輩が話しやすくなるよう配慮もあったのかもしれません。ただ、もしその言葉どおり、自身のことを少しでもアンハッピーだと自己評価しているならば、惜しいことだと感じました。

その知り合いの持ち合わせているものから鑑みると、もっと生き生きと幸せそうな話題が出てきてもいいはずだと感じたからです。

では、どうしてその知り合いはそのようにネガティブ思考になるのかというと、おそらく、他人のことを「競いあう相手」だと考えすぎている面があるのではないかと思いました。

そこで、アンハッピーだと自分を語る人でも、幸せな気分になれる他者の捉え方」について今回は考えてみたいと思います。

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他者と比べて自分の価値を決めることの問題点

人は誰しも「幸せになりたい」と日々考えて生活を送っているかと思います。そのために絶え間ない努力を重ねて、他人より一歩でも前へと考えている人もいらっしゃるかもしれません。

しかし、努力の末に望むものを得たとしても、その結果、その人が幸せを満喫しているかというと、必ずしもそうでもないような気がします。次にはまた違うものが欲しくなって枯渇感を感じてしまう人も少なくないからです。

物質的に恵まれた生活を送っていても自分を「不幸だ」と語る人もいれば、何も持っていないように思えるのに目を輝かせて楽しそうに生きている人もいる。

そういった事実を考えたとき、最終的には本人が幸せかどうかは「その人の心が決める」ということがいえるのではないかと思います。

もちろん他者と自分を比べることには、自身の成長や補うべき点を確認できるなどいろいろなメリットもあるわけです。

しかし、あらゆる場面で他人と自分を比べて自分の価値を決めていては、精神的に疲れてしまいますし、幸せを享受できる機会も少なくなってしまうのではないかと思うのです。

なぜなら、他者と比較をして自分が劣っていると感じたとき、自分が過ごしてきた時間を「無意味なものだった」と否定的に考えざるをえなくなってしまうからです。

例えば、努力したけれども大切な試験で不合格になったとします。すると他人と比べてばかりいる人は、不合格という結果にだけ目がいき、それまでの努力の過程そのものを否定的に考えてしまいやすいのです。

少し長いスパンで考えると、それまでの過程で身についたこともたくさんあることや、試行錯誤したことで成長できた面もあることに気づくかもしれません。

それなのにその過程を「無意味な時間を過ごしてしまった」「不毛な時間だった」というふうにネガティブに捉えてしまうなら、それは非常に惜しいことだと言わざるをえません。

要は「本人の考え方」次第なのです。

ある出来事に対してプラスの解釈をすれば、明るいイメージとして記憶に刻まれ自信にもつながる。一方で、マイナスの解釈をすればそれはトラウマとなり自己肯定感も低下してしまうことになるのです。

本人がせっかくたくさん素晴らしい長所を持ち合わせていたとしても、その魅力に気がつかないままになってしまうのは非常に惜しいことです。

ましてや、人生は有限であるわけですから、自身を否定的に捉え、不平不満ばかりこぼすいことに時間を費やすのはもったない話です。

そこでは「他者と自分を比較して自分の価値を決める」という「ものの考え方」に問題点があるのだと思います。

他者と自分を比較してものごとを考えることが習慣になっていると、「足りないもの」を真っ先に探し、それをクローズアップして考えがちになります。

すると、本来持ち合わせているもののありがたみを感じることができにくくなってしまい、その結果、自身を「アンハッピーだ」というふうに評価してしまいやすいのです。

また、他者と自分を比べてばかりいると、劣等感で心が覆われてしまい、他者の幸せを喜ぶこともできなくなってしまいます

その状態は人間関係を築くうえでの支障にもなるでしょうし、交友関係も狭く窮屈なものにとどめてしまいかねません。そういう点においても惜しいと言わざるをえないのです。

では、どのような視点から他者を捉えれば、人はより幸せを感じることができるのでしょうか?

それについては以下の2つの視点を定めることが有効だと私は考えています。

他者を「共に物語をつくる仲間」として捉える
他者を喜ばせることを第一に考えて行動する

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①他者を「共に物語をつくる仲間」として捉える

他者と自分を比較して自分の価値を決める習慣がある人は、他者の幸せを面白くないと感じる傾向があります。なぜなら「他者より劣っている自分」には価値がないと否定的に考えているだろうからです。

悔しさをバネに力を発揮できる人もいますから劣等感自体は悪いことではないと思います。しかし、他者との比較で一喜一憂する思考を日常的に繰り返していていると、ストレスがたまりやすく、本来味わえる幸せをみすみす逃してしまうことになりかねません。

その原因はおそらく「承認欲求」が人一倍強いということにあるのだと思います。

承認欲求とは「他人から認められたい」「誰かに褒められたい」といったように他者に受け入れてもらいたいという気持ちのことです。

人はまだ物心つかない小さい子供のころは特にそうですが「親に認められたい」「親に褒められたい」といった承認欲求を強く持ち、いろいろなことにチャレンジし覚えていきます。

小さいときに親から十分な愛情を注がれた子供は、その過程の中で承認欲求が満たされ、成長するとともに、次は「他者にやさしさを与えたい」という欲求を満たす方向に移っていきます。

ところが、子供の頃に十分な愛情を注がれなかった、或いは親が厳しすぎて愛情が伝わりにくい状態で育った子供は、承認欲求が十分に満たされないまま大人になってしまいます

すると、社会生活を送るうえでいろいろな場面で支障をきたすことになってしまうと思います。

「認められなかったらどうしよう・・?」「褒められなかったらどうしよう・・?」といった不安や恐怖の感情に支配されてしまうからです。

無償の愛を注いでくれる存在が身近にいるならまだよいかもしれません。しかしもしそうでないならば、得体のしれない不安や恐怖を感じながら「誰も私を分かってくれない」という心境に悩み苦しむことになってしまうのではないかと考えられるのです。

そこでは、承認されない自分と対峙するたびに「自分には価値がない」「私はつまらない人間だ」というふうに自己を否定的に考えてしまうことでしょう。

また、そういった思考を重ねていくうちに、自分自身が空洞化していき、怒りの感情とストレスを心の中に蓄積させてしまうという悪循環に陥ってしまいます。

ではどのように考えればその悪循環を脱することができるのかというと、「他人を競争相手として捉えない」ということが考えられます。

具体的にどのように考えればいいのかというと、他者を競争相手として考えるのではなく、「共に物語をつくる仲間」というふうにとらえなおしてみるとよいと思います。

例えば会社勤めをされている方なら、そりの合わない同僚がいればその相手を「敵」だと考える人も多いかもしれません。

しかし、考えてもみてください。それぞれが仕事を分担してその作業の集合体として会社が機能しているわけです。

また、いろいろな人がオフィッスにいるからこそ、違った視点からの意見を聞けたり成長の機会を得られたり、新しい価値を発見できたりするわけです。

あるいはもっと俯瞰的な視点で考えてみるならば、広い宇宙のなかの地球という小さな星、日本列島のなかのオフィッスで、偶然にも同じ空間と時間を共にする人というのは、何らかの意味があって奇跡的に出会っているわけです。

それにどんな意味があるのか考えていけば、どんな人でも愛おしい存在に思えてくるのではないでしょうか。

つまり、自分に好感を持ってくれる人だけではなく、敵対する人、そりの合わない人、無関心の人、全ての登場人物が、人生というドラマにおいて意味があり、「共に物語をつくる仲間」だとも言えると思うのです。

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②他者を喜ばせることを第一に考えて行動する

他者のことを比較対象として捉えるのではなく、「共に物語をつくる仲間」と捉えてみる。そうすると、気持ちが随分ラクになるのではないでしょうか。それは「協力し合う相手」と考えることで他者に「勝たなければならない」という気持ちが遠のくからです。

では、その概念をより日常生活に定着させるにはどうすればいいのかというと、「他者を喜ばせる」ということを第一に考えて生活を送ってみてはいかがでしょうか?

「他者を喜ばせる」というと、誰かにプレゼントを贈ったり困っている国や地域に寄付をしたりといったことが真っ先に考えられがちですが必ずしもお金を使わなくてもよいと思います。

例えば私の場合、毎日日課としていることのひとつにSNS(FACEBOOKとMIXI)で友達の誕生日に「誕生日祝いのメッセージ」を送るというものがあります。

そこでは、当日誕生日を迎えるひとりひとりに「たくさん幸せになってほしい」という願いを込めて、「本日はお誕生日おめでとうございます」から始まるメッセージを送るようしています。

どうしてその作業を日課にしようと思ったのかというと、誕生日という特別な日に祝いのメッセージを送られるとその相手は幸せを感じると思ったからです。

メールとはいえ一件一件手動で送るのは手間がかかりますが、友達の幸せを微力ながら応援できると思うと自身もうれしく、自ずと手が動きます。

その結果、「誕生日メッセージをありがとう!」といったような喜びの返信をいただくと「良かったなあ」となおさらうれしい気持ちになります

「他者に喜びを与える」事例をもうひとつ挙げるならば、私の親がやっていた掃除ボランティアのことを思いだします。

私の親は昔、私たち子供を連れて毎日のように近くの駐輪場を掃除ボランティアをしていました。

今のように管理人が配されていない時代でしたから、駐輪場には木の葉やポイ捨てされたゴミが連日のようにたくさん落ちていました。

親は私たち子供に「掃除をしたらみんなが気持ちよく過ごせるし、自分も幸せになれるんだよ」と話しては、雨の日も風の日も休むことなく掃除に出かけていました。

誰かが見ているわけでもなく、お金がもらえるわけでもないのに・・。

しかし、そういった活動が数年つづいたころ、「いつもきれいにしてくれてありがとうございます」といった感謝の言葉を出会う人出会う人からいただくようになりました。

なかには陰から私たちが掃除をする姿を見ていた人もいたのでしょう。そしてそういった行動に感謝の気持ちを持ってくれていたのです。

地域の人々に知らないうちに喜びを与えていたことをうれしく思いましたし、そういった親の後姿を見て、自身も微力ながら、誰かの役に立ちたいと思うようになっていきました。

現代社会では「どれだけたくさんのお金を稼ぐか」「いかに要領よく出世するか」というように「自分が利すること」が真っ先に考えられがちです。

しかし、自分の利にならなくても、ときには損をしても、できる範囲で他者の幸せのために何かをする。それが幸せを感じながら日々を送るために大切であるということを私は学びました。

誰かが喜ぶ姿を想像し、それを行動に移すことで隣人同士に助け合いの精神が芽生える。そして結果的に皆が幸せを感じられるコミュニティが生まれていくように思うのです。

困っている人がいれば手を差しのべ、迷っている人がいれば良い方向へ導いていく。ときには自分を捨て、培ってきたものを社会に少しでも還元していく。

それが自身の生きがいにもなり喜びにもつながっていけば、幸せの好循環が生まれるのではないでしょうか。

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トラウマがある人はそれもプラスなものに解釈する

他者と自分を比較してものごとを考える習慣のある人は「他人に嫌われないようにしないといけない」と真っ先に考えてしまう傾向もあろうと思います。

他者の顔色を常にうかがいながらビクビクしなければならないわけですから、日々生きづらさを感じているかもしれません。

そういった思考回路が形成される原因としては、厳しすぎる家庭で育ったことや、成果主義一辺倒の教育を受けたなど、過去の何らかの体験が大きく関わっていることと考えられます。

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確かに、現代の競争社会を生き抜いていくうえで、他人に嫌われないと考えることは大切なことだとは思います。

ただ、その考えに固執していては、前述したように、精神的な辛さを感じる場面が多くなってしまうのではないでしょうか。

その状況を改善するには過去にさかのぼって「他人に嫌われたくない」と考えた出来事をつきとめ、それをプラスイメージなものに解釈しなおす作業が有効ではないかと思います。

例えば、厳しすぎる親から期待される結果を出せなかったときひどく叱られたことがトラウマになっている人がいるとします。

そういった人はおそらく自分の過去の辛い出来事について「私は運が悪い」「自分は苦労ばかりだった」というような否定的なイメージで捉えているのではないでしょうか。

過去の体験自体を変えることはできませんが、プラスなイメージに置き換えることなら、ひょっとしたらできるかもしれません。

例えば

「厳しく育てられたおかげでしっかり者に育った」
「あのとき悩み試行錯誤したおかげで今の仕事につながっている」
「辛い体験のお陰で小さいことも喜べるようになった」
「親は子供の成長を思って敢えて接していた。幸せなことだ」

みたいに。そこでは客観的にどうかといった視点は考える必要はないと思います。あくまでも主観的に考えて「意味があった」「あれで良かった」というふうに「プラスの解釈」をすることが重要です。そういった過去にさえ感謝の気持ちを持つのです。

過去の辛い場面をふりかえる機会が訪れたら、そのたびにプラスのイメージで考えなおすことを習慣化する。最初のうちは受け入れ難いかもしれませんが、何度も何度も繰り返していくうちに、その自身に掛けた言霊が潜在意識に記憶されていきイメージの上書きがなされていくはずです。

過去のトラウマをプラスなものに置き換えられることができれば、あとは意識せずとも自己肯定感も上がっていくでしょう。そして、失われた自分自身を取り戻すことができていくと思います。

するといつの間にか「嫌われても構わない」というふうに自分自身に対して寛容な気持ちも湧いてきて心が軽くなるはずです。

「失敗ばかりの自分でもOK」「うまくいかない私にも価値がある」といったように無条件で自分を受け入れられるようになる

すると、自分自身だけでなく、次は他者に対しても寛容になっていき、自然と他者にもやさしい言葉をかけたいという気持ちが生じるようになると思います。

それは、自分自身だけでなく他者についても承認することができるようになるからです。そうすると、他者の幸せも自分の幸せのように感じるようになることで、幸せを感じる場面が増えていくのではないかと思います。

まとめ

自分のことをアンハッピーだと考える人がより幸せを多く感じるためには、他者と自分を比較して自分の価値を決める思考を変えていくことが必要です。

そのためには、他者のことを競争相手ではなく「共に物語をつくる仲間」というふうに捉えること、「他者を喜びを与える」視点で行動することが有効です。

また、過去に辛い出来事がある人はプラスイメージに捉えなおすことによって、ありのままの自分・他者を承認することができ、他者の幸せも自分の幸せのように感じられるようになると思います。

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