人はついつい日常生活を送りながら愚痴をこぼします。
私も以前はことあるごとに不平不満を口に出していた時期がありました。特に何も悪い出来事がなくても、何となく「面白くないな」「つまらないな」みたいに感じてしまうわけです。
ただ、不平不満を言ったからといって、大抵の場合、状況は改善されるどころか良くないない方向に向かうものです。
なぜ人は特に何もなくても不平不満を感じてしまうのかというと、それは、無意識のうちに、ものごとを減点思考で考えてしまっているからだと思います。
他者(世間一般)と自分自身を比較して、現在の自分に足りない部分を無意識のうちに探してしまう思考回路が形成されてしまってるのです。
例えば、お店でお弁当を買って食べたとしても、現代人は大きな感動をすることはそうそうありません。
「まあまあのお弁当だな」「冷えていて味が落ちてるな」程度に軽く愚痴までこぼしながら、そそくさと食べてしまう人が多いわけです。
しかし、同じお弁当を、戦時中の食糧がないときの人々に配ったら人々はどう思うでしょうか?
おそらく、家族で分け合い、泣いて喜びながらその味をかみしめながら食べるのではないでしょうか。
同じお弁当なのに、一体なぜそこまで捉え方が違ってくるのでしょか?
それは、対象物に対して減点思考で考えるか加点思考で考えるかの違いがあるからだと思います。
「お弁当が食べれること」を「当たり前のことだ」ととらえ足りない点を探すのか、それとも非日常的なものだと考え、その素晴らしい点を探すかの違いです。
殊に現代の日本は物質的には豊かであり、世界的に見てもうらやむべき先進国です。しかし、不平不満をこぼしながら暮らしている人が非常に多いという現実がそこにはあります。
むしろ、ものがない後進国の人々のほうが豊かに暮らしているようにさえ見えます。それはおそらく後者は戦後に近いものの加点思考の考え方が社会に残っているからだと思います。
そういった点を考えると、目が見え、耳が聞こえ、好きなものを食べれるなど、普段私たちが「当たり前のことだ」と捉えがちのことを、「当たり前のことだ」と短絡的にとらえてしまわないことが重要だと思います。
どんな出来事にも良い部分を探しそれを「ありがたいものだ」と感動的に考える。
それがものごとに対する喜びを大きくしてくれるポイントだと私は思います。
日々の生活のなかには、ストレスや不平不満につながりうる要素はいろいろあるのは確かです。
ただ、それらをそのままマイナスのものと捉えてしまうか、視点を変えてプラスなものと捉えるかは本人の心次第というわけです。
ですから、今目の前で起きている出来事にしても意識的に「良い解釈」をしていくことが人生を豊かに過ごせる秘訣であると思うのです。
それを「当たり前のことだ」と考えるのではなく、一歩立ち止まってじっくりと観察し、非日常的な側面をできるだけ多く発見していく。
そしてそれらにできるだけ感動的に味わうことが幸せな人生につながっていくのではないかと私は思うのです。
お弁当でいうならば、五感を使ってその彩や風味、味わいなどをその「素晴らしい点」を出来るだけ多く発見する。
そしてそれらを味わえる体の器官や、お弁当をつくってくれた会社や食料になった動植物に感謝する。
すると日常は実は感動に満ちた素晴らしいものであるということにはっと気付かされます。
そのような加点思考のものの見方が習慣化したとき、現代人が抱えている日常生活に対する不平不満もその多くは解消されるのではないかと思います。